昭和五十七年七月二十四日 朝の御理解

御理解第八十八節 昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めようということである。

 昨日も八十八節でしたが、神様の願いとしては氏子信心してお陰を受けてくれよと、お徳を受けてくれるのは人間氏子だけしか頂けんのだとね、いかに神様が生きとし生きる者の上に恩恵をたまわりましても、人間以外の者にお徳を受けてくれといわれても、お徳はやる事もまたは受ける事もでけん、牛やら馬に研けの改まれのというても出来ないようなものです、それが出来るのは人間氏子だけだと、そこにね天地の親神様のいうなら切実心があると思うのですね、どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよと昨日も八十八節で夕べの月次祭もやっぱそれを中心にしたお話しでしたが今朝もまたこの八十八節を下さるね、一生懸命の信心さして頂いて本当に広がりに広がる。
 昨日、私はテレビを見せて頂いとりましたら、ある昆虫のその、穴の中で過ごしておる昆虫があるんですよね、それはもう穴の中にジィとおって穴の周辺にやってくる、いうなら食べ物ですかね、ま小さいあの虫やら飛んでくるとそれを、的確に間違いなくパッと、こう穴の入り口で捕らえるわけですね、また中には投げ縄のようにして、近くに来た虫をただジッとしとつてその頂ける、その技というかね、そういう技術をそれぞれが身につけてるという事、棚からぼ丹もち、というようなおかげは有難いですけども、それにはそれだけのちゃんと、いうなら仕組みがあるわけですね、御神徳を受ければと、おっしやる、御神徳を受けるとね、も、それこそあらゆる一切の物が集まってくる。
 先だって、先生方が見えた時に久留米のホテルに前の晩泊まられたとこう、それで私がブランデーを一本と何かブランデーのお魚になるような、まあチョコレートか何かがあるならチョコレート、それに今時期の果物で美味しいものは、桃ぐらいなもんだろうから、桃をいきがけ三人だから買って行くようにというておりました、ところが丁度どなたかがですね、き麗な箱に、詰めたもう見事な桃を三つ入れたお供えを頂いたんです。いや丁度、親先生あの三人の方が一づつ頂かれる、丁度きちっとした箱に詰めて頂いております、ならそれをそのまま持っていきなさいという話をあの先生方にしたんです。
 私が例えばあの玉露のお茶を飲んで、あ、ここに甘いものが欲しいなと私がもし思うたら、だれかが必ず羊かんを持ってきとりますよ、という話をしたんです、昨日、私がお届けをしました、あのブランデーも、チョコレートも、あの桃も、やっぱそうでしたけれどもね、というて、お話しをした事でございますがね、じっとしといてそれが出来るならそれが、棚からボタモチだけを願った信心だったかというと、そうではなくてです、必要なものが必要に応じてそこに頂ける、現れるというだけの信心をさせて頂いとるから出来るのです。
 いかに棚からボタモチのようではあるけれども、そこにはね、ただ信心しておかげを受けて一生を終わるというのではなくてね、、そこには、ま、昨日、今日の御理解からいうとですね、そりややはり辛い苦しい悲しい腹の立つような事もあるけれどもね、それこそ、それをジーッと修行と思うて辛抱するという事は、丁度辛い苦しい時に鏡を立てて、ハァこんな顔は人に見せてはならんというて、家を治めていけとおっしやる、そういう精進であり修行でありましょうが、ですね、その辛いとか苦しいとかという事が本当に教えがわかる、教えを鏡に立てると、それは辛い事でも苦しい事でもないんだ、その辛い苦しい事が大きければ大きいだけおかげの大きい神様の、いうならば御神願成就の為の働きなんだ、現れなんだ、それが本当の事がわかってくるわけ、いつも聞いて頂きますように私はもう金に一番難儀を致しました。
 もう借金の断りくらい辛い苦しい事はありません、しかも度々に嘘になるのですから、もうそりや行きにくい事、行きにくい、もうとに角、神様は行けといわれるから行きますけれども、その人の前まで行ってなかなか入られない、その人の家のぐるりをグルグル回って、もう勢いをつけて入らなければ入られないね、一遍二辺の断り行くぐらいならいいけども、しかももうみすみす嘘のような事をいうて断りに行くのですから相手の方が腹立てんはずがない、その顔を思うただけでなかなか入られんのだけれども、やっぱりきちっとお断りにね、そしてあるお断りの時にですね、ある方の話を聞いた、それはあの相撲とりの話であった。
 そりやもう本当に鍛うこと、鍛うこと、それこそ末は横綱か大関かというくらいの期待がかかった関取はなおさら、もうはいも立ちもできぬようにして鍛うという話を聞いた道中で、そん時に私の心にひらめいたものがそれであった。ハハァこれだけ信心させて頂いて、これだけ辛い苦しいことがあるという事は、今こそこの氏子こそ末は横綱か大関かと神様がね白羽の矢をたてておられるからこその、このおきたえを頂いておるんだと思うた時に、もう私の心の中にはどうにも出来ない喜びと感動と元気な心がわいて、それこそ金の断りに行くのぢゃない金を預けにいくような心持ちでお断りに行ったんです、もうそれっきりでした。もう大坪さん来て頂かんでよか、あんたが家を建てたときに払うてもらえば、というような事になってきた。
 私、皆さんにも申しますけども、苦しい事が苦しいからお願いしよるというところからね、その苦しい事のいうなら神様のその苦しい働きをさせて下さる、そこを一つ悟ってですね、御礼のいえれる、その心を頂かなければです、今日私がいう棚からボタモチのようなおかげは受けられないです。ただ信心するという事は拝んでさえおれば、棚からボタモチが落ちるような願いをする人がありますけれども、それではいけない落ちてくるなら落ちてくるだけのです、昨日、見たその昆虫ぢゃないですけどもね、そのじっとしとってもそこにきたエサというものは絶対逃がさないだけの技術というものを、身につけておるように、いうならばおかげの世界から信心の徳の世界、光の世界というものを、かいま見ておるわけです。
 皆さんはここでね、信心によればああいうおかげも受けられるという事を、いわば見ておるわけですから、なら皆さんがここに通うてくるなら、それを頂く講題とのための信心修行なさらにやいかんですね、それには一生懸命のものがいるんですね、そこから翻然とした有難い心もわいてくる、そういうおかげが積み重なっていくうちに成程、この世には神様の難儀というものはないといつたような心も開けてくるんです。難儀が大きければ大きいだけ、心の中にいわば大きな受け物を作って下さるという確信が生まれてまいりましてねその事に対して御礼が言えれるような心の状態が開けてくるんです、だから本当に、その教えの鏡を立てれるところまでいかにやいかんですね、そすとそこにはっきりと本当の事が写って来るんです。 それは一生懸命の信心さしてもらわなければ頂ける事ではないと思うけれども、合楽ではそこができる、そこが私共にの何十年前のそれではなくてです、そこに至れる為の手立てがいうならば容易う説かれてあるという事を皆さんが思うて、神様はどうでも合楽に通うてくる氏子の一人一人にですね、私はこれは毎朝御祈念をさしてもらう合楽にご縁を頂いとる信者の一人一人がですね、日参、教聴、信行、心行。家業の行をもってですね、日勝り、月勝り、年勝りのおかげを頂いてです、いよいよそれが代勝りのおかげにもなるおかげを頂く為に信心の真を現し、信心の継承、いわゆる代勝りのおかげを頂いて、貧争病のない真善美に輝くようなおかげを一人一人の氏子に頂かせて下さいというのが、これは毎日欠かさずこの御祈念だけは致します。
 だから皆さんが私の祈りを受け止めて下さらなきやならない、それをです、なら昨日の朝から昨夜から今朝にかけてです、この八十八節を下さるという事は、私は神様の切実心だと思うです、どうぞ広がりに広がる元を頂いてくれよというね、これは牛やら馬やらにやろうというても出来る事じゃない、人間氏子しかも合楽にご縁を頂いてる者はその気になれば誰でも頂けるんだと、いうのが神様の願いであると思うんです、ね、だからこそこうして繰り返し下さるんですね、ただいうなら人に悪い顔を見せんというだけの信心から、もう一つ奥の信心いうならばつらいとか苦しいとか思うておったその事が有難涙に変わるような手立てが合楽理念には説いてあるんです。
 その有難涙に、どんな場合でもくれさせてもらえるような信心が私は徳を受けていく事なんです、しかもそれは限りない、いうならば広がりに広がっていく八十八節の事につながって来るのです。だからそこを頂く為に私共は本気でその一生懸命に稽古さして頂く事が有難い、楽しいという信心、ただ一生懸命参り、これを頼まなんけこればお願いせなんけん一生懸命参ってとぢゃいかんです、それはおかげも頂きましょう、けれどもね私はここで本当に人間だけしか受けられない御信心の徳というものを信心しておかげを受けてくれよとおっしやるもうじっとしておっても必要なものが必要に応じて頂けてくるような御神徳を頂けるのは人間だけです。
 しかもその教えを的確に頂いておるのは合楽の皆さんだけだと言うてもよいと私は思います、その皆さんがそれを頂かづして合楽にご縁を頂いた値打ちがない、いうならいよいよ合楽にご縁を頂いておる値打ちを発揮できるようなおかげを頂いて頂きたい、昨日も八十八節でしたね、今日も八十八節、皆さんこれは天地の親神様の氏子、私共にかけて下さる切実心の現れだと私は思います。    どうぞ